14.Dec.2017
Art

フアナ・サリエス

~ラ・プラタの音楽家シリーズ

 フアナ・サリエスは歌手・作曲家・映像作家。雪が降り積もるウシュアイアという南極からわずか1000キロのアルゼンチン最南端からやってきた彼女の歌声は精霊のように精神に語りかけてくる。生まれ育ったウシュアイアの情景、ラ・プラタの街で得たもの、映像と音楽との関係、歌声と身体との関係に関してスピリチュアルで詩的な話を聞かせてもらった。

―生まれた街(アルゼンチン最南端ウシュアイア)を簡単に描写してくれませんか。

フアナ (現在住んでいる)ラ・プラタの正反対です(笑)。乾燥していて一年を通してずっと寒い気候です。冬には雲は淡いピンク色に染まり、静かに雪の到来を告げます。一日が短く、暗いです。レンガ、コイウエ(アルゼンチン南部に固有の木)といった木が多くの色に染まる秋も好きな季節です。こどもにとってはその自然に囲まれるというのはたまらなく幸せで、私もそんなこどもでした。
 同時に、ウシュアイア市内には深いノスタルジアが横たわっています。新しい人が来たと思ったら出ていくそんな街だからです。高齢者があまりいないこともあるかもしれません。
 山々の内省的な要素が睡眠へと誘ってくれ、想像力の源になります。魔術的な力は美しくもありますが、精神的に不安定であれば少し辛いものも感じるかもしれません。作曲は南部の情景を蘇らせる作業でもあります。スピネッタなら「その建物の間にジャングルが横たわっている」なんて言っていたかもしれませんね。

―どうして(現在住む)ラ・プラタにいこうと決めたのですか?音楽にあふれてインスピレーションを与えてくれる環境ですが、どういった友人をみつけ、どういうグループで歌ってきていますか?

フアナ 実はあまり覚えていないんです。でも姉が当時ラ・プラタに住んでいたことも大きな決め手でした。ただ、セメント、地下鉄、ビルでたくさんのブエノスアイレスには行きたいとは思いませんでした。
 ラ・プラタは音楽的でインスピレーションあふれる街で、この街に感謝しています。音楽について深い話ができる友人がいますし、それ以外にも人生のすべてを語ることができる友人がいることで自由を感じることができます。自分を客観的な視線から他者として見つめなおし、クリエイティブな表現、音色を生み出すことができます。リハや撮影のロケを通して美しいものが生まれてきます。

 現在はアルブールという七重奏(セプテート)でピアニストのフランコ・ディオニジともに作曲をしています。同じく七重奏(セプテート)のナディスではピアニスト・作曲家・歌手のフアン・イグナシオ・スエイロ新作『Transmuta』の曲を中心に演奏しています。

 友人が作曲した曲を演奏し、アンサンブルを奏でていくことほど感動的なものはなく、深く感謝しています。彼らの音楽に対する真摯な思いと才能を敬愛しています。そのプロセスの中で自分自身の限界というのもわかってくるようになりました。

 その他にはバレンティーノ・サンパオリとのデュオも始めました。バレンティーノは表現テクニックに長けていて、彼の即興をすぐ側で聴けることほど素晴らしいことはありません。オリジナル曲の作曲や他の作曲者の曲、冬らしくノスタルジックなメロディー、陽光とフレヴァー溢れる曲も演奏しています。

―最初に生で聴いた際はアルゼンチンの歌手というより、エリス・レジーナやタチアナ・パーハというブラジルの女性歌手との近いなという印象を持ちました。

フアナ ブラジル音楽は大好きです。ブラジル音楽だけ聴いているという訳ではありませんが、ブラジル音楽の教育面には注目しています。ブラジルのミュージシャンであればすべての楽器をおしなべて演奏していること、ギタリストやピアニストだけというのではなく、多くが「楽器奏者」なんです。楽器に対する関心の深さや愛を感じます。その中で多くのものが一つのものに融合している感覚ですね。

―たくさんいるでしょうが、音楽面で影響を受けた人は?

フアナ うーん、たくさんいるので一部だけ(笑)。スピネッタ、ビョーク、坂本龍一、ティグラン・ハマシアン、モノ・フォンタナ、ビル・エバンス、マリア・ジョアン、マリオ・ラジーニャ、エルメート・パスコアール、ウーゴ・ファットルーソ、ジ―ン・リー&ラン・ブレイクのデュオ、ヴァルダン・オヴセピアン、ブルガリアの不思議な声、ラヴェル、ドビュッシー、ボビー・マクファーリン、ジョニ・ミッチェル、メレディス・モンク、ディエゴ・スキッシ…まだいますが。
 なぜかというのはここでは省きますが、概して彼らは自分の記憶の細胞の中に残り、琴線に触れるものを持っています。強烈な存在と誠実な姿勢が感じられ、私の中に飛び込んでくる人たちで、そういったエネルギーを感じられる存在はこの世界において非常に大事です。聴いているときに何が起こっているのかは実のところよくわかりませんが。

フアナ・サリエス
Photo: Juan Sallies

―あなたの特徴として、スキャットが多いことも特徴ですね。歌詞がない分マージンが多く、即興的な要素も多くあると思うんですが、このスキャットという歌い方にどういう魅力を感じていますか?

フアナ たくさんの自由を感じます。複雑な感情が折り重なって難しい日々もありましたが、声を響かせるという動作が清めてくれます。風景や情感を思い描くことが多く、その中に私の姿をおきます。最近気づいたんですが、歌うときに自分を身体の外から見つめることが多いですね。歌詞のないメロディーは原始的な言葉の中から生まれ、コミュニケーションの意図、マニフェストというものに変化していきます。

―あなたの身体は声の延長にあるように感じます。身体と声との関係をどう感じていますか。

フアナ (歌うということは)存在を強く感じる状態です。音楽をみんなで生で演奏していると強い存在が感じられます。存在するということは身体がどこに位置し、どれくらいの密度を持っていて、どの空間を占めているか意識しているということでもあります。身体や取り囲む物事が何を語るのだろうか。その後、内部から外へ押し出す動きも関係もしてきます。私の身体をどこでつかまえているのか、声をどこから支えているのかと考えると、音楽や取り囲む友人たちに尽きると思います。

Photo: Juana Sallies

pájaro // la carta

música : fragmento de <la carta> del mono fontana

Publicado por Juana Sallies en Martes, 8 de agosto de 2017

映画制作にも携わっていらっしゃいますが、映画音楽をやっているわけではありませんね。制作している映像にも強い個性と詩を感じさせてくれますが、映像の中に音楽的なものを感じたり、逆もありますか?

フアナ はっきりとはわかりませんが、ビジュアルが音を提案し、音がイメージを提案してくれることもあります。類似点としてはアートという分野に二つとも属しているので作者がどういう状態にあるのかダイレクトに伝わります。音楽にも映画にも光や人物、シナリオ、構図から雰囲気を構築していきますし、ことばの音色、演劇や詩とも深く関係しています。

 ただ、私は音楽と映画に常に一緒にいるというわけではありません。精神的・感情的な状態を保つにあたって適しているというものなんです。

 一つの違いはライヴの音楽は一定時間続きますが、作曲者の意図とは別に、演奏や即興によって時を超越する場合があります。通達もなくやってくるもので、図ることのできないものでもあります。

―映画作家ではどういう人に影響されてきましたか、そしてそれはなぜでしょう。

フアナ 音楽と同じく、一部だけ挙げます。ヴィム・ヴェンダース、ジェイラン、デヴィッド・リンチ、イングマール・ベルイマン、タル・ベーラ、ルクレシア・マルテル、アンドレイ・タルコフスキー…。
 彼らの実験的な感覚に興味があります。彼らは人生、愛、時間の経過、そしてそのつながりを語る監督でもあります。人生で何も起こらない時だってたくさんありますが、待っていても何も起こらないことだって。それこそが彼らの映画の中で起こっていることです。
 彼らの映画においては詳細な分析が求められるというのではなく、もっと深くに内在する観客と映画との対話の関係に重きを置いているということも好きな要素です。映画を直感的に観察すると、他の場所から体の中に入ってきます。