13.Oct.2017
Art

ディエゴ・スキッシ―作曲講座―Vol.1

ピアニスト・作曲家

 ディエゴ・スキッシの音楽―タンゴが持つ哀愁、大都市ブエノスアイレスの持つ複合性、そして作曲者が奥深くに秘める狂気…。多くのアルゼンチンの作曲家がより所にするその彼が作曲に関するワークショップを行った。

 彼の音楽の優れている点は現代のブエノスアイレスに生きる自らのスタイルでうまく咀嚼して譜面の上で表現し、そして鍵盤の上では譜面に落とされたものをピアニストとして絶妙に表現するふたつの表現者であるという点にある、と思っていた。

 しかし文学や哲学にも耽溺する彼はフランス文学を参照しつつ、雄弁に作曲家という奇妙な職業を1時間ほどの時間で見事に描写するという優れた表現者でもあった。以下はその要約文で、前編と後編の2部に分けて紹介したい。

 作曲とは数万ものオプションの中から決定を行うこと。楽器編成、コード、メロディー、色合い、ト-ン…。直感で浮かんできた素晴らしい考えも時によっては悪夢に陥り、どうしても解決策が見出せないという難題が浮かび上がってくることもある。気に入った素材があったとしても、続けることができずに誤った方向に行ってしまったりしまうこともある。作曲に際しては多くのたどるべき道があり、矛盾を招いてしまうこともある。ここで提起する問題は、いかにしてアイデアを発展させていくのか、いかにして解決策を見出していくのかということだ。

 作曲の過程で袋小路に陥ってしまった場合、最もよい方法は思い切って分解してみること。そうすることで、その曲に含まれたアイデアを傷つけたくないばかりに弾きたくないと思っているのか、素材に対する感情的な問題なのかがはっきりしてくる。誰もが心で作曲を感じる自由はあるが、理想として作曲家とは作品を批判的に見ることができるものだ。それは作家の職業にも似ていて、情熱を持って一気に作品を書き上げることもあるが、時が経てば冷静に文法上の解析をし、文章の校正をする必要が出てくる。

 作曲家とは内的な存在で、自らに語りかける者のこと。作曲とは自分が立つ場所から未知の場所へと移動するということで、それはほとんど狂人がやることに近い。真の作曲のプロセスにおいては、作曲家は数多くの変更を余儀なくされる。曲を書き始めたうちにはわからなかったが、素材とじっくり対峙して、考察するうちになぜその変更が起こったのか、咀嚼していくことができるだろう。

 その心の動きがあってこそ作曲のプロセスが深まり、真実に近づいて、他者を感動させることができる。人が何か好きな音楽を聴くのは何か琴線に触れるものが確実にあるからだが、その感動には非常に人間的な心の動きが存在する。たとえば30秒間作曲で煮詰まった場合はその心の動きをつかめるようにならなければならない。

 では30 秒間作曲に煮詰まった場合するべきことは何があるだろう?

  • あくまで固執する
  • 再度見つめなおす
  • 細かく分解し、音楽を構成している基礎理論、名称を知ること(例:どの和音なのか、どの調性なのか自分でわからなければ相手に伝えることはできない)

 特に音楽のことをよく知り、認識し、そして差別化しなければならない。作曲においては必ずフォーマルな部分も存在する。アカデミックというわけではなくとも、インテレクチュアルな道も通る必要があり、考察力、言葉・シンボル・概念に置き換えて表現する力、しかもそれは厳密に音楽的、感情的でなければいけない。

 例えば、スピネッタは直感が優れた作曲家だけれども、自分がやっていることを自身でわかっていただろうか?直感というのは知識のことでもある。もちろんわかっていて、彼自身何をやっていたか言葉にすることはなくとも、スピーチを続ける能力があり、それは誰もが持っている才能ではない。スピネッタはアルメンドラから最後の作品まで変わらず自由なクリエイティブさを持っていた。

Vol.2へ続く(後日公開)