ビオレタ・パラ 生誕100周年
チリの偉大なフォルクローレ歌手
その声は悲壮な繊細さを持ち、誠実さが多重に絡み合う。見捨てられたもの独特の色合いを携えて、至上のもの、そして永遠のものを語るように歌った。農民として「聖人へ」、革命家として「民衆へ」と歌い続けた。伝統の民衆歌を編纂し、それを基に「愛ということばを呪う、全ての憎しみを込めて、我が苦悩は如何ほどか」、「人生よ、ありがとう、これほどのものを与えてくれて」などといった自らの歌を作り上げた。
大地主たちを称えることなく、歌を歌う優雅な女性を演じることなく、アメリカ大陸最大のフォルクローレ歌手としてあり続けた。人生を全うし、そしてその天命において命を絶った。未完と獰猛の間に揺れた人生の中で、ラテンアメリカのカンシオン界における最も偉大な存在、ビオレタ・パラは自らの芸術を作り上げた。
ビオレタ・デル・カルメン・パラ・サンドバルは100年前の1917年10月4日チリのチジャン生まれ。詩人、歌手一家で9人兄弟の3番目のこどもとして生まれた。父は小学校の教師で、生まれもっての音楽好き。母は裁縫家で、ミシンに向かっては自身の出身地の古い歌を歌っていた。この家庭のなかで、兄弟のうちのほとんどが芸術的志向を持った。
長男ニカノールは数学者であると同時にスペイン語におけるもっとも傑出した詩人のひとり。オスカルはサーカスのアーティスト、ロベルトは音楽家で演劇で活躍したし、ラロとラウタロもフォルクローレの音楽家だった。長女のイルダは1940年代後半には「パラ姉妹」としてビオレタと歌っていた。兄弟とともにチリのサンティアゴ市内のマポーチョ地区でボレロ、ランチェラ、メキシコのコリードも歌ってい、その後は劇団員としてチリ中を駆け巡ったり、ビオレタ・デ・マジョという名でスペインの歌を歌っていた。
ビオレタは真のチリ音楽は愛国的な祝祭、ポルカ、ワルツ、コリードといったものには宿っておらず、邪(よこしま)な社会秩序の中に消し去られていると感じていた。こうして兄ニカノールの手を借りてマルゴット・ロジョラがチリに残した莫大なカンシオンの収集に立ち向かうこととなった。その流れの中でサンティアゴ市内北西部に位置し、農村部からの移民でごったがえすバランカス地区の老女たちと知り合い、農村部にまつわる逸話を語ってもらうことになった。
ビオレタの回想のなかにしばしば「天使の編曲家」と呼ばれたドニャ・ロサ・ロルカが出現する。トナーダ、祝祭歌、クリスマスの祝祭歌、ペケン、チャペカオ、レファロサ、クエカといった農民の舞踊といった彼女から伝えられた農村部の逸話はビオレタの豊かなアイデンティティの構築に大いに寄与している。ビオレタの「聖人への歌」、「民衆への歌」といったものは美術館に飾られるべきものとはかけ離れ、民衆の口から口へと伝播していくことになる。
1954年にはフォルクローレ研究やラジオ番組による農民の歌の紹介といった活動が称えられ、カウポリカン賞を受賞する。同年ワルシャワ青年フェスティバルへの招待を機にヨーロッパへと旅行。チェコスロバキアを経由してパリへ移り、2年を過ごす。人類博物館でのコラボレーション、『ギターと歌:チリの歌と舞踊』の録音、ソルボンヌにおける国際フォルクローレフェスティバルへ「チリの代表」として参加した。ロンドンではBBCアーカイブ向けに歌を録音したが、欧州の場において末っ子で2歳になるロシータ・クラーラとの死別も経験する。
自らの土地への帰還後、フォルクローレ研究を励んだ結果としてセラミック、絵画、アルピジェリアといわれるチリ特有のタペストリーといったアート全般にも活動の枠を広げる。「アンティクエカ」といった秀逸なギターソロ作品を出した後、1950年代後半には『チリフォルクローレ歌集』を編纂。デシマといわれる10行詩で自伝的作品を連ねるようになった。
1960年にはアタカマ砂漠への研究に訪れていたスイスの人類学者で音楽家のギルベルト・ファブレと知り合う。当時24歳ギルベルトは南米、そして43歳でその大陸の文化を根強く持ったビオレタの虜となる。ふたりが愛を育んだ後、ビオレタにとって最も先鋭的でアーティスティックな時代へと突入することになる。
息子たちとともに「チリのパラ」としてビオレタはフィンランドの青年フェスティバルや、ソ連、ドイツ、イタリア、フランスを1961年~1965年まで旅する。その集大成として『アンデスの民衆詩』の発行、スイスのテレビ局によるドキュメンタリーフィルム『ビオレタ・パラ―チリの刺繍家』、ルーヴル美術館でのアルピジェラ、油絵、針金による彫刻といった展示を行った。
アンヘルやイサベルといったビオレタのこどもたち、ビクトル・ハラ、パトリシオ・マンス、インティ・イリマニ、キラパジュンといったグループとともに『新しいチリのうた』と呼ばれる表現力豊かな活動を展開したのもこの時期にあたる。
『アラウコの嘆き』、『学生好き』、 『太陽が燃えている』、『あの笑顔をごらん』、『手紙』、『法皇さまはどうおっしゃるだろう』、『不正の真ん中で』、『アメリカの民衆』、『マスルキニカ・モデルニカ』といった教会や政治家、抑圧者に対するバッシングや証言を鉱山労働者、マプーチェ*ⅰ、チローテ*ⅱを代言した形をとっている。
一方、晩年になると愛、そして憎悪に関する歌が際立つ。「高き空への呪い」、「邪悪な心」、ボリビアへと旅を続ける決心をしたファブレに捧げられた「ルン・ルンは北へ去る」、「鷲の瞳」といった怒りをこめたもの、そしてより形而上的な「熟考する歌い手」、「17に戻れたら」、「人生よありがとう」などがこの時期の代表作に挙げられる。
愛に加えて政治、宗教もビオレタが歌の中で訴えてきたことだった。「聖人への歌」は農村部で学んだものだが、歌っているうちに怒りが芽生えてくるようになり、次第に神や天上界への疑問を投げかけるようになった。
「大地よ目覚めよ
空が開く前に
怒りの雷が鳴り響く前に
聖ペドロのラッパを携えて
司祭たちが一掃される前に」
『風のお願いによれば』より
「空は支配する
大地と資本を
法王の兵隊たちを
ズタ袋は富であふれ
働けるものたちの
栄誉は闇の中へ」
『貧者は持たぬから』より
1965年にビオレタはチリへ帰国。サーカスで用いるキャンプを張って昼間はワークショップ、夜はぺーニャに励んでいた。サンティアゴ市内のカニャーダ街7200番に位置し、『女王のキャンプ』と呼ばれていたが、ダウンタウンからの距離とアクセスの悪さによってプロジェクトは次第に困窮を極めていく。その結果として観客もなく、借金を背負ったまま1967年2月5日、自ら命を絶った。
聖なるもの。俗物的なもの。愛。政治。個人的なもの。集団に訴えるもの。全てがビオレタの中で燃えたぎっている。パブロ・ネルーダは「聖なる純粋なグレダ*ⅲ」と称し、兄ニカノールは「歌い鳥の宿る木」と称した。民衆がビオレタの歌を口にするたびに、彼女の雄姿が想起される。
*ⅰマプーチェ:アルゼンチン~チリに住む先住民
*ⅱチローテ:チリ南部のチロエ島の先住民
*ⅲグレダ:脂分の濾過や染料の漂白に用いられる粘土の一種。フラー土。
Text by Santiago Giordano