SFコミックの最高峰『エル・エテルナウタ』
やがて来るべき未来の記憶
2007年7月、ブエノスアイレス市に89年ぶりに雪が降った。気象史上記録的な出来事であり、しかも独立記念日の祝日に雪が降ったので、雪を実際に見たことの無い子供を始め、大人もこぞって沸き返り、翌日の報道も家庭での話題もそのことでもちきりだった。
そしてその頃、期を同じくして『エル・エテルナウタ』の展覧会が開催されていた。まるで作者の魂が雪を降らせたみたいだ、と感じた愛読者は多かった。雪が舞う空を皆はどんな思いで見たことだろうか。
『エル・エテルナウタ』は、シナリオをエクトル・ヘルマン・オエステルヘルが執筆し、作画をフランシスコ・ソラーノ・ロペスが担当したSFコミックである。1957年9月4日から1959年11月18日に亘り、フロンテーラ出版発行の「週刊オラ・セロ(零時)」に連載された。
あらすじ
深夜、コミックのシナリオ作家が書斎で仕事をしていると、向かいの椅子に一人の男がうっすらと徐々に姿を現した。驚く作家が何者かと問うと、男は自身をエテルナウタだと紹介する。(エテルニダーは永遠の意、永遠の時空を旅する人という造語。)主人が物書きと知り、エテルナウタは自分が何ゆえ時空を彷徨う次第となったのか、語りはじめる。
エテルナウタの名はフアン・サルボ。ある晩、彼が仲間達といつものように自宅でカード遊びをしていると、突然停電になり、何か様子がおかしいことに気付く。妙な静けさに包まれた窓の外では、灰のような薄片が降っている。外に出た人々がそれに触れると、瞬時にして倒れ死んでいく。放射性物質か?フアンは家族や仲間と共に家に篭るが、やがて、できる限りの防護服を拵え、ブエノスアイレスの各所で未知の怪物と戦う。同胞であるはずの人間も、中にはロボット化して操られている者がいるので油断はできない。地球侵略を謀る本当の敵はどこだ?見えない「彼ら」を相手に、フアンと仲間達は闘いを繰り広げていく。
そして大切な盟友達のおかげで、フアンはひとまず生き延びることができた。が、しかし、愛する妻と娘を探して時空を彷徨うことになってしまう。こうして、シナリオ作家の部屋へ現れたのであったが…。
解説 *以下、結末への言及を含む。
ブエノスアイレスに降り積もる死の薄片を発端に、未知の生命体による地球侵略が始まるというストーリーが、見えない真の敵「彼ら」の存在を窺わせつつ、生き残った人々と怪物たちとの戦いを通して展開されていく。敵は、目の前に立ちはだかる怪物ではなく、それを操っている黒幕だ。フアンと仲間たちは、リーベルプレートのサッカースタジアムやベルグラーノの東屋、イタリア広場、国会議事堂広場など、市民にとっては馴染み深い生活空間で、戦いの歩を進めていく。読者はよく見知った我が街を、登場人物と共に前進するのだ。
フアンは主人公だが特別な人物ではない。愛する家族と落ち着いた地区にある家に暮し、夜は仲間とカード遊びで過ごす、そこそこ成功した中流階級の、幸福で平凡な男である。劇中人物として理想化された英雄でもなければ、またギャップを狙った劣等生でもない。ごく普通の男である彼が、家に残してきた妻と娘にしばしば思いを馳せながら、仲間と協力して共に戦う。「彼ら」の手に落ちて操りロボットと化すくらいなら、死んだ方がましだ!それがフアンとその仲間達の人間としての矜持である。
しかし読後、何年時が経っても、フアン・サルボが今も時空を彷徨っているような気がする。彼が家族にめぐり合えて仲良く暮らしているはずだと、なぜ幸福な現在を思い描けないのだろう。なぜ安閑としていられないのだろう。
完結しない永劫の時間が、フアンを忘れさせてはくれないのだ。
フアンはシナリオ作家にすべてを語った後、この時代が地球侵略の数年前であることから、家族が無事に生きているはずであることに気付く。すると月の羽衣を着せられたかぐや姫のように豹変し、嬉々として家庭へと戻ってしまう。その体験を忘れてしまったのだろうか?残された作家は、自分に渡されたフアンの記憶のバトンの重さにおののく。この作家は、実は作者オエステルヘル自身を擬している。
主人公は退場してしまった。だが彼によって未来の話を聞いてしまった我々は一体どうすればよいのだろう?悲劇を避けるために何ができるのだろう?読者は本を閉じても、ストーリーが終わったという気にはなれない。次の頁が、読者に託された守るべき未来が、そこから始まっているのだ。
作者について
エクトル・ヘルマン・オエステルヘルは1919年7月23日生まれでブエノスアイレス出身。ブエノスアイレス大学地質学専攻。子供向けの物語などの執筆を経て、コミック専門のシナリオ作家として活躍。己が信ずるところのコミックに専念するため、実弟と共にフロンテーラ出版を設立し、コミック誌「フロンテーラ」や「オラ・セロ」を刊行。「週刊オラ・セロ」に連載された『エル・エテルナウタ』は、数々の彼の作品のなかでも金字塔となった作品である。同じ画家の絵で番外編、続編が発表されたほか、他の画家と組んだ政治色の濃い新バージョンがある。
功績
オエステルヘルは、コミックを娯楽的作品から文学的作品へと劇的に革新した。それまでは娯楽とされていたコミックを、文学書籍よりも多くの大衆、ことに若者の読者を得られる表現手段として彼は捉えていた。
総括的に彼の作品の特徴は、英雄と悪者という極端に二元的な世界ではなく、各人に様々な立場があるという実社会の現実を反映している。またそれまで一般的であった外国や架空の世界ではなく、舞台をアルゼンチンに構え、そして普通のアルゼンチン人たちを登場させた。それは読者にとって、自分たちのアイデンティティと共鳴できる国産のリアルな読書体験となった。
アルゼンチンでは9月4日がコミックの日となったが、この日が選ばれたのは『エル・エテルナウタ』が連載を開始した日だからである。
悲しみの象徴 オエステルヘル一家
1977年4月、オエステルヘルはラ・プラタ市で軍に拉致され消息不明となった。日付は不詳だが、翌年に殺害されたという。彼の娘4人全員(18歳から25歳、うち2人は妊婦)とその夫や恋人も拉致され、うち娘一人は妻が遺体を引き取ったものの、他は行方不明。よって妻と2人の孫がオエステルヘル家の生存者である。
1976年から1983年までは軍事独裁政権の時代であり、主に多くの若者たちが軍によって強制連行され、行方不明となった。息子や娘を拉致された母親たちが、消息を求めて五月広場に集うようになり、「五月広場の母たち」という団体を形成し、後に「五月広場の母親と祖母たち」となった。アルゼンチンの暗黒の歴史であり、それはアルゼンチン国民の痛みとなった。オエステルヘルとその家族の悲劇はそのうちの一事例であり、これによっても、彼の作品はいっそう国民的な関心を保ち続けることとなった。
冒頭で触れた2007年の展覧会は、作品連載開始から50年、作者が拉致されて行方不明となってから30年目の追悼で開催されていた。そこに奇しくも、ブエノスアイレスの雪である。非科学的なことは信じない現代人でも、流石に鳥肌がたったのだ。
そしてコロナウィルスが世界を侵略した今年、2月にNetflixによる『エル・エテルナウタ』の映像化のプロジェクトが話題になったことも重なって、『エル・エテルナウタ』に思いを馳せた人々は多く、メディアでも関連した記事が決して少なくなかった。コロナウィルスは必然的に、触れると即死するあの雪のような薄片を想起させ、医療班らの装備はフアンたちが着ていた防護服を思わせた。
人類は様々な危機に今後も直面するだろう。しかし人は独りではない。フアンは家族の元へ帰ってしまったが、それもまた良し。誰にでも休息は必要なのだ。だが、覚悟を決めた人は最後まで共に歩もう。作家の声は、光の矢のように時空を超えて未来へと飛び続けている。