17.Sep.2017
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ドキュメンタリー映画『ファットルーソ』監督インタビュー

ウルグアイ音楽史を紐解く

ドキュメンタリー映画『ファットルーソ』監督インタビュー

 エドゥアルド・マテオ、フェルナンド・カブレラ、ルベン・ラダ、ハイメ・ロース…ウルグアイ音楽史に並ぶ彼らがこぞってその影響を認めてきたピアニスト・作曲家ウーゴ・ファットルーソ。彼の人生に焦点を当てたドキュメンタリーが今年ウルグアイで公開された。
 ウーゴの持つ謙虚さやおおらかさから、日本でも比較的近い距離から親しみを持って接することができるが、このドキュメンタリーに登場している、彼を取り囲んで慕ってきたアーティストのインタビューを眺めてみて改めて彼の偉大さを認識することができる。ウルグアイという小さな国で伝説を築き、いまだに牽引し続ける一人のミュージシャンの生き様を自らもウーゴの大ファンというサンティアゴ・ベドナリク監督自身初となった映画『ファットルーソ』の魅力を語ってくれた。

-この映画を撮ろうと思われたきっかけは

サンティアゴ・ベドナリク (ウーゴのバンドの)OPAを知ったことがきっかけになった。ルベン・ラダのインタビューの中でこのバンドの米国での話を聞いて何かできたらいいなとは思っていた。自分の考えではOPAの物語を構築しなおしてドキュメンタリー映画を撮ろうと思っていた。そのためにもOPAのメンバー全員に集まってもらってもう一度演奏してもらう必要があったんだけど、このプロジェクトが始まってすぐに残念なことにオスバルド(・ファットルーソ)が急逝してしまった。
 そのため、OPAのドキュメンタリーは頓挫してしまったけれど、ウーゴとはコンタクトをとっていたので彼に関しての物語が作れないか模索してみた。ウーゴ自身は快諾してくれて、自分もリハにも顔を出すようになった。自分が若かったこともあってか、ウーゴがいかに偉大なのか、いかにウルグアイ音楽の歴史を担ってきた人なのかその過程で次第に気付くようになっていった。このプロジェクトが始まったのは4年半前の2012年からだね。

 -この映画は『ウーゴ・ファットルーソ』というタイトルではなく、『ファットルーソ』というタイトルですが、理由は

サンティアゴ・ベドナリク タイトルの決まっていない映画でよくあるのが、タイトルをつけないといけない最終段階になってから何かタイトルをつけるということで、ウーゴの場合は「エル・ファット」や「ファットルーソ」と呼ばれることが多いのでそのタイトルに決まったよ。彼の人生はコンサートのようなので『ウーゴ・ファットルーソ・コンサート』という案もあったり、『ウーゴ』という案もあったんだけれど、彼の父親として、兄弟として、家族しての側面も考慮してこの名前にすることにした。

 -軸はウーゴにありますが、家族全体の話ですね

サンティアゴ・ベドナリク この映画でファットルーソ一族全体像が見えるようになっている。彼の父も演奏をしていたし、母も彼と住んでいる。こどもは4人いて弟オスバルドもいる。彼の家族の一面に焦点を当てた映画はこれまでなかったと思う。

 -シコ・ブアルキ、ミルトン・ナシメント、フィト・パエス、ハイメ・ロース…といった国内外のかなりの数のミュージシャンにインタビューされて、ウーゴの偉大さが改めて実感できましたが、どれだけのインタビューをされたのでしょう

サンティアゴ・ベドナリク 60個はやったけれど、映画の中で実際に使ったのは20個だね。ウーゴは謙虚な人で、常に新しいものを作っていく人なので、あまり後ろを振り返ることはない。そのこともあって彼だけに話を聞いているだけでは彼の人物像は明らかにはならないと思ってこれだけのインタビューを集めたよ。

 -ウーゴの音楽は自分にとってのウルグアイ音楽への入口となりましたが、ウルグアイに住んでいる監督にとってはウルグアイ音楽との出会いはどういうものでしたか

サンティアゴ・ベドナリク 自分はウルグアイで生まれたのでウルグアイ音楽は当然そこら中にあった。でも真の意味でウルグアイ音楽に触れたのはOPAを通してで、友人を通して70年代の音楽に触れるようになった。OPAを聴く以前には、当時ウーゴがアメリカに住んでいたこともあってソリストとしてウーゴの音楽を聴くことはなかった。

 自分にとってOPAはウルグアイ・ジャズ、そしてジャズ・カンドンべ・フュージョンの門戸を開いてくれた存在だね。それまでは米国やアルゼンチンの音楽を聴いていたけれど、次第にウーゴ、ラダ、ハイメ・ロースを聴くようになった。その意味でも、ウーゴがウルグアイ音楽の門を開いてくれた存在といっていいね。

 -ウーゴの人生があまりに劇的なのでまるでドラマのようにも見えますが、ドキュメンタリー映画なんですよね

サンティアゴ・ベドナリク 無意識にやってしまって後で気づくんだけれど、彼が大金を失ってしまったことに焦点を当ててしまいがちだ。お金を失ったことはお金に重点を置く人にはドラマティックに見えることもあるみたいだ。
 友人のエコノミストは「なんとひどい過ちを…。あれだけの大金を失ってなぜ何もしないんだ」と嘆いていたけれど、他の人はもっとリラックスしてこの出来事を受け取ることもある。「経済的な損失は受けたけれど、彼自身は好きなことをやり続けて、ダメージを受けていない。この事件があったからこそ今の彼の音楽がある」とね。観客が送っている人生によってこの映画の見方は変わってくるだろうね。
 ウーゴは当時、実際苦しんだようだけれど、映画の中ではこれを台としてステップアップする姿をとらえるようにした。この時代がなければOPAでの成功もなかっただろう。その意味でもこれは決してドラマティックな映画ではなく、ポジティブな思考を与えてくれる映画だと思ってほしい。

 -映画のお披露目ライヴには参加されたんですね

サンティアゴ・ベドナリク とても緊張したけれど、ウーゴに対するオマージュの意味もあった。彼自身はどう感じたかわからないけれど、素晴らしい経験だった。ウーゴの歴史を語ることができたし、そのあとにライヴもやってくれた。数年をかけてつくった初の映画作品ということもあってこのライヴは自分にとっての一つの時代の区切りにもなった。観客が反応し、笑い、拍手してくれるのを見ることができるなんて感激としかいえない。

 -ウーゴ自身の反応は

サンティアゴ・ベドナリク 映画の中で彼が語ってくれたことで一番印象に残っているのが、「ウーゴが多すぎる、なんでなのかもわかる、自分の歴史を語らないといけないわけだからね…」。でもウーゴにとって重要なのはもし選べるのであれば音楽だけの映画だろうね。しかも彼の演奏ではなく他人の。でも彼が介入してくることはほとんどなく、僕の仕事を尊重してくれた。

-撮影後もウーゴは常に新しいものを作り続けていて、進化を遂げています。10年か20年経つとまた新しい映画を撮り直さないといけませんね

サンティアゴ・ベドナリク 実際、ウーゴを語るうえであまりにも多く素材があって、もう一つ映画を出せるくらい余ってしまった。特に過去のウーゴについて語っていて、たとえば現在の日本での活動には触れられていない。ミュージシャン向けに音楽だけで構成された第2弾も含めて、この映画を日本にも持っていけたらいいね。ウーゴのライヴ演奏を撮影してDVDにすることも考えているよ。

-最も感動的なのが、ウーゴがカラスコ空港に戻るシーンですね

サンティアゴ・ベドナリク あれはアメリカからミルトンのツアーを終えて帰ってくるところなんだ。数年ブラジルに住んでいて、ミルトン(・ナシメント)とのツアーのあとにウルグアイにやっと帰ってくることになって、アルバムを出すことも決まっていた、感動のシーンだね。

-ウーゴの音楽はラテンアメリカ中で特にミュージシャンの間で知られていますが、この映画を通じて世界中の人に彼の偉大さが伝わるといいですね

サンティアゴ・ベドナリク 今のところはまだわからないけれど、フェスティバルでどれだけ上映できるかだね。アルゼンチンでは今のところマル・デル・プラタで上映予定だよ。