フェデリコ・アレセイゴル
~ ラ・プラタの音楽家シリーズ
ブエノスアイレス州の州都、ラ・プラタ。人口わずか68万人のひっそりとしたこの街の音楽がとてつもないことになっている…。その中心的な存在といっていいのが、ピアニストで作曲家そしてラ・プラタ大学芸術学部で教壇に立つフェデリコ・アレセイゴル。
数々のミュージシャンを育んできた大学で教授を務めているとこともあり、この街のミュージシャンの中で彼の名を知らぬ人はいないと言っても過言ではない。ペドロ・アスナールのツアーに帯同する前の忙しい日程のなか、地元のサッカークラブであるラ・プラタFCの本拠地に近い郊外の閑静な住宅街のフェデリコの家にお邪魔し、ラ・プラタの音楽の現在に迫った。
●ラ・プラタの街と音楽との出会い
-もともとはラ・プラタ出身なんでしょうか?
フェデリコ そうだね。今住んでいるところから3ブロック離れた両親の家で生まれて、引っ越しはたくさんしたけど常にこのあたりに住んでいる。数年街の反対側にも住んだけれどこのあたりに戻ることにした。
-ラ・プラタの街を描写してくれませんか?
フェデリコ 静かな街で、ブエノスアイレスとは比べ物にならないほどの小さな街だけど、かなりの割合でたくさんのミュージシャンがいる。ブエノスアイレスに行く機会はたくさんあるけれど往復3時間かかったとしてもここに住んでいたい。もちろんブエノスアイレスのミュージシャンは多く知っているし、一緒に仕事をしたこともあるけれど、この街は何にも代えることはできない。ブエノスアイレスではカラコル、シルビア・イリオンド、ペドロ・アスナールとも働いたけれど、自分のトリオは難しくてやっていない。今のところ参加してきたツアーは他のグループのメンバーとしてで、自分のグループとしては難しいと思う。
-地元のラ・プラタ国立大学に行ったんですね。
フェデリコ そう、そこで学び、働いていた両親と同じくね。僕は大学付属の中学校に通ってラ・プラタ国立大学に通い、現在は家族の伝統を守って大学で働いているよ。
-こどもの頃はどういった生活でしたか?音楽に限らず。
フェデリコ 両親の家の前には小さなスペースがあって、当時は舗装されていなかった。そこで同い年のこどもたちが周りにいて一緒に育ったよ。両親は他の親と交代でこどもを見ていた。午後3時から日が暮れるまで道端でサッカーをして育ったよ。通りを歩くとみんな挨拶してね。今日では変わってしまったけれど。今は昔より悪いというのは好きじゃない。ただ変わってしまっただけなんだ。こどもたちは昔と変わらず幸せだよ。新しい価値観があって、良いものもある。
-音楽との出会いは?
フェデリコ 学校の後、両親が経営するラ・プラタでは有名な音楽教室に通っていた。たくさん生徒が居て、学校の後直接通っていた。小さい頃から高学年のこどもに混じって弾いていたよ。5歳のころかな。ピアノはその教室の先生に6歳から習い始めて、22歳まで習ったよ。
-ピアノ教室では何を教わりましたか?
フェデリコ 先生はクラシックのピアニストでアカデミックな人だった。自分を楽器奏者として育ててくれた人だね。技術的な用語、技術の強化、楽器の使い方まで全て彼女、スサーナ・ロメから習ったよ。ピアノを弾くということ、ピアノ奏法まで、自分を形付けてくれた人だね。
-フォルクローレやジャズとの出会いは?
フェデリコ それはその後。6歳でスサーナとピアノを始めてから11歳くらいの頃ラ・プラタにショーがやってきたから見に行ったんだ。タト・フィノッチがピアニストで、その弾き方、そして譜面を見ないで弾いて歌手を見ながら即興で弾いていることに驚いた。こんなこともできるんだと感銘を受けた。それからタトとフォルクローレやジャズを学ぶようになった。自分にとってもう一人の先生だね。
-両親は音楽家なんですか?
フェデリコ そう、二人ともそうで、父はギタリストで、母はピアニスト。完全に音楽一家だね。こどもは3人いて、歌を教えてとせがまれるよ。
-こどもたちは楽器は弾くようになるんでしょうね?
フェデリコ おそらくね。音楽には常に触れている。でも押し付けたり勧めたりすることはないね。自分たちで決断するだろう。自分たちはこどもが幼いときから音楽を学ぶように言ったりするような家庭ではない。
-大学で働かれているから家庭でもきっちり教えているのかと。
フェデリコ 両親も自分に対してそのようなことはしなかったので、自分もそうするつもりはないね。押し付けていいことはない。意志がないと音楽に対する健常なつながりができないと思う。
●ラ・プラタ大学について
-その哲学は大学の生徒にも当てはまるんでしょうか。
フェデリコ 大学では別だね。大人と働いているし、彼らは自分の意志で学校に来ている。それに大学という研究機関ということもあって、ある程度の条件を満たさないといけない。国立大学で無料なので、自分の意見では、好きなことを教えるわけにはいかない。
それは音楽的、教育的、時代、イデオロギーに沿った文化遺産であって、大学の分析の結果に基づいている。大学に行くのは好きな音楽を語るためではない。好きか嫌いかは別のテーマで、音楽について語るのは好きだけど、大学で教えるのは定められた科目を教えて、役立つプロを養成するためだ。学習プランも組んであって、チームになって科目を好きなように教えている。全ての学習プランは大まかに言って組織だてられていて、エリアに分類されている。
-生徒はどこから来るのでしょうか。
フェデリコ アルゼンチン全体と、コロンビア、チリ、ブラジル、コスタリカ、ヨーロッパからも。周辺国からもたくさん。アルゼンチンのように大学教育が無料という国ばかりではないからね。
-ラ・プラタ大学で教えている科目はどういったものですか?
フェデリコ 「音楽表現」といったもので、昔でいう「ハーモニー」、「形態論」、「体位旋律」で、昔は3つに分かれていた。このクラスは大学一年生と二年生むけで、ここ以外にもブエノスアイレスの大学の専門課程で教えているし、「調性表現」のゼミの准教授としても教えている。この科目全てが自分の専門エリアだね。
でも、楽器のクラスはやっていない、というよりあまりに幼い頃に楽器を学んだからどうやって習得したのか覚えていないんだ。一時期必要があって楽器のクラスも持ったんだけれど好きでもなかったしすぐにやめたよ。音楽表現法は好きで、調性表現の講義で多くを学んだ。アカデミックな音楽とポピュラー音楽の表現に関する講義を今は自分が担当し、自分が学生の頃担当してくれた教授たちもまだそこに在籍している。