01.Mar.2018

歌手ナディア・シャニウク 

~ サルタの大地が育む詩心

 ナディア・シャニウクはポーランド系の血を引くアルゼンチン北部サルタ出身の歌手。ポエジーそのものといえる力を持ったソプラノの声が印象的だ。2017年始め、夜や幻想といったイメージをもとに世界に散らばる子守唄を編纂して、アレンジを加えた『ルナ・アトラス』をリリースした。アンデス山脈が近くにそびえるサルタで生まれた彼女にラテンアメリカという大地が育んだ詩心にまつわる話を中心に話を聴いた。

歌手ナディア・シャニウク 

―ご出身のサルタという街を簡単に描写してくれませんか?

Nadia サルタ・ラ・リンダ(美しきサルタ)といわれている様、コロニアル様式の建築がブエノスアイレスに比べて目立ち、古い家では300~400年の歴史があり、アルゼンチン北部で最も古い街のひとつです。サルタには川沿いの港がある他、フフイ、サンティアゴ・デ・エステロ、トゥクマンと同じくインカの道が通る要所であったためスペイン人が早くに到達することになりました。
 街は山と谷に囲まれており、山々の奥に階段状にアンデス山脈がそびえています。川・ジャングル・砂漠といった海以外の全ての自然がサルタにはあります。この自然風景と音楽はつながっており、伝統的に歌い手や詩人のゆりかごでもあります。独裁政権(1976年)前にはさらに豊かで、商業的な音楽産業の発展により危機に瀕していますが、いくつかはまだ存続しています。

 

その透き通った声は詩そのもののように心に貫通してきます。幼いころは何を聴き、歌ってきましたか?

Nadia アルゼンチン音楽、フォルクローレの影響は二人の音楽家から受けました。私と同じサルタ出身のクチ・レギサモンとメルセデス・ソーサです。二つの偉大な声から私の中の全ての音が生まれました。
 その他、コーラスで5歳のころからコーラス曲からフォルクローレまで様々なタイプの音楽を歌ってきて、コンクールに参加するために旅行するごとにその土地の歌を覚えるようになりました。この経験が世界の音楽へ関心を与えてくれることになりました。アルゼンチン音楽と似通った点と異なる点を見出すことに関心があります。

2017年に発表した『ルナ・アトラス』では様々な国の子守唄を編纂されました。こどもは歌詞の内容そのものは理解できないかもしれませんが、音楽のエッセンスは伝わっているはずです。外国語で聴いている人にも同じことが言えるかもしれませんね。

Nadia その通りです。多くの子守唄の中で土地や作者、音楽を飛び越えて似通った歌詞が登場していました。物語や詩から派生してできた子守唄が多く存在するように、音楽ジャンルとしてだけではなく文学ジャンルとしても成り立つものなのだと認識するようになりました。同時に、このCDは幼児向けの音楽にならないよう、文学的要素を含めるようにしました。スペイン語以外の2曲はより私の作品として近づけるため、スペイン語に翻訳して歌うことにしました。

編成もミニマムで最小限に抑えてあり、音と音の間のマージンを多くとってあります。聴く人によっては睡眠へと導入されることもあるかもしれませんね。

Nadia そうなればよいなと思っているくらいで、全く問題ないです。全てを音で多いつくすのは好みではなく、むしろ静寂を好むくらいなので、最小限に抑えています。時折リズムから逸脱しては戻ったりすることも好きで、あえてやっている曲もあります。同時に自由さも重要視していて、ドビュッシーの曲に歌詞をつけた『ルナ・アトラス』ではさらにオリジナルよりさらに自由にリズムのくずしをおこないました。

 

あなたの音楽は深く、音楽家であってもこのコンセプトを簡単に理解できるわけではないと思います。どうやってコンセプトを他のアーティストに伝え、選んでいったのでしょうか。

Nadia オーガニックなプロセスでした。2014年の1年間は健康上の問題で耳が聴こえなくなって手術をして全く歌えない状態にありました。回復には1年を要し、その期間は歌うことはもちろん聴くこともできませんでした。静寂そのものだった1年間、自分の中に芽生える内部の音と出会うことがきました。内省・分析・憂鬱…様々なものが頭をよぎりましたが、大きな成長を遂げた豊かな1年ともなりました。忙しい日常生活の中ではしない疑問の連続でした。
 何がしたいのか?何を歌うべきか?誰の歌を?もう歌えなくなったらどうする?歌とは自分にとって?…
 その過程で歌と音楽を自分の中で位置付けすることができ、CDはそういった考えの中から生まれました。(闘病後)歌えるようになってからはなぜ歌いたかったのかが鮮明になってきました。何を歌うべきかよくわからなかった以前とは違って、歌えれば何でもいいという考えはやめました。この子守唄の編纂は15年のプロセスを経ていますが、最初は何をすべきかわからずにただ好きだから集めていただけです。

歌手ナディア・シャニウク 

CDとしてリリースする考えを持っていなかったんですね。

Nadia 甥っ子にプレゼントできればいいかなと思っていたくらいです。その後、子守唄を集めていた資料を再び手に取って、夜、暗闇、そして自分に起こったことと関連付けるようになりました。CDはそういった個人的な物語りの中から誕生し、マテリアルと音楽に面白い現象が起こってきたのでこの仕事を続けるようになりました。作業を続けるうちにレパートリーと音色の案はできていたものの、誰と演奏するか、CDのことは考えてもいなかった。
 そうするうちに私が病気の頃から連絡をくれていたブルーノ・モギレフスキーを呼んで一緒に音楽をやろうということになって、アイデアを交わすうちにすぐに理解してくれてリハにとりかかることになった。
 ほとんどの曲がオリジナルではないアレンジという過程を経ているけれど、アレンジというのはただ曲を引っ張ってくるというのではなく音楽の中に入り込み、私の中をその音楽が入り込まないといけないと思っています。
 それは時間を要する密接な対話であり、オリジナルという以上にパーソナルなものにならないといけない。アレンジが自分のものとして確立されるためには作曲と同じ手法をとらないといけないと思っています。作曲的な手法でアプローチし、編曲家というより作曲家の立場に立っています。

(続く)